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1975年 [経歴]

この年の4月に大学に入ったことで松山で下宿することになった。
それで、山越町にある個人のお宅の2階に間借りして、そこのお嬢さんの家庭教師をすることで部屋代は相殺と云うことにしてもらった。
とても良い条件だったけど、これが一年で追い出されてしまった。
というのも、家庭教師をさぼってばかりだったからだ。

入学式のすでに前日に「バチェラーズ」という変わった名前のジャズ研に入部して、そこで直ぐにジャズピアノに夢中になった。
6月には定演で演奏した記憶がある。

夏休みが終わる頃、経緯は覚えてないのだが、新居浜にバンドの入ったキャバレーがあると云うことを知り、そこのピアノの席が空いていたので弾かせてもらった。
やはり学生バンドと違ってプロに混じってやると音楽がいきなりランクアップした。
とは云っても、演歌やストリップのショウの伴奏もやるし、ダンスの伴奏で演ったこともないラテン音楽なんかもメモリー(譜面がない状態で演奏すること)で演る。
でもこれが大人の世界なんだよね。いろんな音楽が出来ることがまた面白かった。

その銀泉街にあったキャバレーは「月世界」と云った。
バンマスは、後に岡山の「バード」と云う老舗ジャズクラブのマスターになった岡崎直樹さん。
もう亡くなって2年になるかなあ、本当に素晴らしいアルトサックス奏者だった。
耳もいい人で、ギターを弾いてよくコピーしていた。
岡崎さんは当時、新居浜に住み着いていたけど、他のメンバーは松山から毎日車で通っていた。
ドラムが現在、松山で「グレッチ」というジャズクラブのマスターである高橋修さん。
ベースはやはり松山で活躍している渡辺綱幸さん。
トランペットが今は丸亀に住んでいる、大学の先輩であった三原さん。
ギターは酒屋さんをやりながら毎日メンバーを乗せて運転していた岡本さん。

9月に入ってからは、その車に同乗させてもらって毎日新居浜まで通った。
何のために松山に下宿しているか分らないことになっていたけど、もちろん親には秘密だ。
話が長くなったけど、そんな訳で家庭教師など出来る筈がなかった。
後期からは学校にも行かなくなってしまって、まっすぐにキャバレーのバンドマン稼業に突き進んで行った。
稼業と云っても、僕はその店では人数的に雇用外だし、見習いであったからギャラはなかったのである。
そして1回生が終わる頃には「バッチェラーズ」もクビになってしまった。
もちろん学生のサークル活動として行動をともに出来ないのだから仕方がない。

翌年の5月頃だったと思うが、その「月世界」のバンドが、大阪からやってきて松山の三番町に開店した「紅馬車」というキャバレーにそのまま移ることになった。
この仕事はドラムの高橋さんがとってきたので、ここに移る時にバンマスは高橋さんがやることになった。これが後に大変なことになるんだけど、その話はまたの機会に。
岡本さんは家業に専念するためにバンドを離れて、その後釜に僕が正式にメンバーとなったのだ。
はれてキャバレーのバンドマンになった僕は、最初の2ヶ月くらいは月給で6万5千円もらっていた。
でも高橋さんが気を遣って、僕にだけだと言って5千円足して7万円に上げてくれたのを覚えている。
この当時、松山の下宿代は一畳1千円と云われていた。4畳半の部屋なら月に4千5百円である。
そして、大学の授業料が半期で1万8千円、月3千円である。
この時代の学生にとっては7万円ってすごい金額だよね。
もう親にも、仕送りなくてもバイトでやるから大丈夫だよ、なんて連絡したのを覚えている。

こうして思い返せば、大学2年の時にキャバレーでプロ入りしたんだった。
長くなりそうなので、続きはまたに。






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