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1976年、松山で [人生]

先日、今はハワイに住む高校の同級生とLINEで近況などをやり取りしてると大学時代の話になり、それがきっかけで思い出した当時のことを書いてみようと思います。

僕は2回生になった頃からピアノを弾いて稼ぎ始めたので、その頃から両親には仕送りはなくてもやっていけるからと断って、その代わり授業に出なくなりバンドマン生活にズッポリ嵌まっていったのです。

最初にギャラをもらうことになった松山市の三番町にあった「紅馬車」というキャバレーでは店とバンドの間に入っていたマネージャーがバンドのギャラを持ち逃げしたために立ち行かなくなり、バンドは1年くらいで解散の憂き目に会いました。
ここで両親に話してまた大学生に戻ることも出来たはずなのになぜかそうはせずに、そのキャバレーの近くにあった「摩周湖」というスナックでお客の伴奏の仕事をやり始めたのです。
40代くらいの姉妹でやっていたその店には自分の父親くらいの年齢のヴァイオリンの先生がいて、30分ずつ交代で酔い客の伴奏をするのです。
そこで酔い客が歌うのはほとんど演歌なのになんでそこまでして仕事を続けようと思ったのかわかりません。
両親に自分でやるからと言った以上はやり通そうと思ったのか、それはそれで楽しかったのかは忘れてしまいましたが、その少し後にまたその近くにあった「陣」という高級クラブにも雇われることになり、そこではピアノトリオでジャズのスタンダードやポピュラーの曲を演奏していました。
この2軒を掛け持ちしてたこともあったので、結構な稼ぎになっていたはずです。

今となってはもうあの頃に出会った人たちと再会することはないだろうなあ。
再会出来たとしてもきっとわからないと思いますが。
我儘放題にやっていたとんでもない奴だった筈です。m(_ _)m
しかし、ずいぶん昔のことなのに店の名前もよく思い出せるし、その当時の光景まで浮かんできます。

この頃から既に純粋なジャズミュージシャンとは違う道を歩んでました。^^;
さすがにこのままでは流されてしまうと思って焦り始めた頃に、松山で一番大きいキャバレーだった「パレス」に雇ってもらえることになりました。
当時、松山にいた知る人ぞ知る素晴らしいヴァイブラホン奏者の藤井寛さんが東京に戻るということで、後釜として入れてもらえることになったのです。
お試し期間でひと月一緒にやってもらったのですが、あまりにも演奏のレベルが違い過ぎて僕は一週間もしないうちにすっかり体調を崩してしまいました。( ; ; )
藤井さんにはその後上京した際にもたくさんお世話になりました。
しばらくお会いできてませんが、機会があればまたご一緒させていただきたいと思っています。

この「パレス」にはショーのバックをやる11人編成(tp3、tb2、sax3、rhy3)のバンドと、僕が雇われていたカルテットが交代で休みなく演奏するのです。
バンド全体を仕切っていたのが、今も松山のジャズ界のボスである堤宏文さん。
ある日、1ステージ目の演奏を終えて楽屋に戻ろうとしたら堤さんからショーバンドの方も弾いてくれと言われ、初めてビッグバンドの譜面を弾くことになりました。
なぜだかその日からショーバンドのピアニストが再び店に戻ってくることはなく、結局僕がしばらくそちらのバンドも兼任することになりました。
その後はカルテットの方にギタリストが入ったと思います。

「パレス」はかなり規模の大きいキャバレーで、100人を越えるホステスさんが在籍していたように覚えてます。客席は劇場のようにすりばち状になっておりナイトシアターと呼ばれてました。
そして週に一回だけビッグショウが入るのですが、そのビッグショウで僕が最初に伴奏したのが中尾ミエさんでした。
宮川泰さんがアレンジした「片想い」の譜面はコードでなく全部音符で書かれてあったのを覚えてますが、ピアノだけで伴奏する部分をどうやって終わらせたか記憶にありません。(~_~;)

そんなこんなで4回生になっても殆ど単位が取れてなくて、もう大学を辞めるかどうかくらいの所まで来てしまいました。
ここで将来どちらの道を選ぶにしてもやはり大学は出ておこうと決断して、留年して5回生になった時点で一旦ピアノの仕事を辞めました。
教育実習に行ったり、短期間で卒論を書いたり、3年分の単位を1年で取って無事に卒業することはできましたが、果たしてピアニストとしてやっていくのか教師の道を選ぶのか悩みましたが、どちらにしても後悔するのならやりたいことをやろうと決断したのが44年前の春でした。

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卒業させてくれた大学の近くで、2年前の11月


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